(三)たった一人の日常

赴任当初は中国人に囲まれて生活していたので、日本人の友人もおらずアパートが決まるまでホテルと会社を行ったり来たりして過ごした。総経理(日本におけるゼネラルマネージャー、支店長のようなポジション)の陳さんは面倒見がよく、食事や、日露戦争で有名な旅順の二〇三高地に連れてもらったりして今でも感謝しているが、なんせお互い言葉が不自由だったので会話が続かない。世代差もありなかなか溶け込めない。食事するのももっぱらマクドナルドなどのファーストフードが中心になり、帰ればホテルでニンテンドーDSをしながら時間をつぶす毎日。居心地の悪い日常を過ごしていた。そんな僕に最初にできた友人はなんとスペイン人だった。

共通の趣味を通じて日本人社会にアプローチしようと当時はやっていたミクシイで空手の練習仲間募集をかけたのだが、返答があったのはあるデンマーク人の奥さんの日本人女性だった。話をよく聞くとそのデンマーク人の友人のスペイン人男性が日本の空手の先生を捜しているとの事だった。なかなかややこしい経緯だが、久しくスペイン語を話していなかった僕はその依頼に興味を持った。

ミゲル・サラス・ディアスは大連外国語学院という、大連市の日本語人材の供給元でその昔は中国でスパイを養成していた学校の教師だった。ヨーロッパによくいる日本オタクの一人なのだが、彼の場合はアニメなどのメディア媒体から興味を持ったというより、自身が幼い頃に練習していた沖縄剛柔流という、硬派な空手流派を練習した事に端を欲する。彼の祖父はフランコ軍事独裁政権下で工業大臣を務めた経歴を持ち、“破れた靴”の異名をとるほど質素かつ厳格な信条を持つ人物で、そのような家庭で育ったミゲルは古き良き日本人的な性格の持ち主だった。

 僕の母方の祖父は日本の普通選挙制の導入に貢献した尾崎学童の書生をしており政治的思考が強く母も少なからず影響を受けている。また父方の祖母はアメリカ生まれの日系人で第2次世界大戦をきっかけに日本にやってきた。曾祖父は財産を没収されたうえで収容所に入っていたそうだ。父はその出自からかリベラル思想に傾倒し学生運動に没頭した経緯があり、僕も小学生の頃から、マルクスやドストエフスキー、聖書や仏教の本を読むことを強制されて育った。父の持論は子供に習わせるものが空手を含めて将来海外に出た時に役に立つかどうかが常に指標にあった。

お互いの類似点を発見しあったミゲルとはすぐ仲良くなり、交流は今でも続いている。その後、彼は台湾で5年間スペイン語の教師を務めた後、スペインに戻り、高校の国語教師をしながら小説を出版した。

 そうやって日本人と余り交流のないまま、赴任当初を過ごして、徐々に言葉や習慣、仕事の仕方を覚えて、住むアパートも確保した3カ月後、ようやく家族を呼び寄せる準備も整った。自分の息子と初めて同居できるタイミングをむかえようとする時、僕はまた大きなしくじりを犯してしまう。