世界のベンチマーク(自伝)帰国編(五)格闘家復帰への道パートⅡ

アライブは現在では総合格闘技界においてはプロ選手を輩出した数や在籍したチャンピオンの数では国内でもトップクラスだが、僕が入門した当初は地方のいちジムに過ぎずプロで活躍する選手もいない状況だった。ジムのオーナー兼トレーナーのS社長も、もともとスポーツジムのインストラクターをやっていた人で格闘技をバックボーンに持つ人ではなかったので厳格な指導を仕切るというタイプではなく、僕らが想像するジムというよりはサークルのようなノリがあった。ここだけ聞くと上下関係がなく和気あいあいというイメージしか浮かばないが、実際は柔道やサンボ、レスリング、ボクシングといった腕に覚えのある者たちが集まりスパーリングの中で答えを見つけるという野獣の楽園と化していた。

フィジカルの強い者だけが練習を続ける事ができて、途中でケガする人も多かった。結果的に上にいった選手を並べてみると総じて道場内ではクラッシャー(壊し屋)と呼ばれる空気を読めない人たちが残っている印象がある。彼らは日常においてもクラッシャーかというと決してそうではなく、練習中だけ別人格というか狂気の仮面を被っているかの如く練習相手を痛めつける事を厭わない。ヤンキー漫画のように友情とか男気とかとは無関係にただただ物理の世界がそこにはあった。

 寝技が苦手だった僕は連日、ボロ雑巾のようにやられ続けた。つい半年前まで先生と呼ばれ、ナショナルチームに指導していた僕がピラミッドの一番下に落ちて、強い人たち同士のスパーリングの輪に入れず三角座りでそれを眺める。実績も経歴もあとかたもなく消し去られ、才能と肉体という巨大な壁が目の前に立ちはだかっていた。空手の仇を取るなんてイキっていた自分を殴り飛ばしたい(笑)。
 
 序列の最後尾に並んでいた僕も運よくアマチュアの試合では勝ち続けていたが、急遽、東京への転勤が決まりアライブを退会する。滞在期間はわずか1年ほどだったがあまりに濃い時間だったのかこの時の付き合いは今なお人間関係として残っている。

 東京で新たなジム探しを始めて入会したのが、和術慧舟会という名門道場。通勤途中にあって便利だったのと、腕立てや腹筋など自重を使った補強運動をたくさんやる練習が名物でそれが気に入った。東京のジムに出てきてびっくりしたのが意外に自分が通用してしまった事だった。それほど当時のアライブに無名だが強い選手が集まっていたのだろう。

思い返してみるとフィジカルトレーニングも半端なかった。サーキットトレーニングというスタミナをつける為に1分毎にスクワットしたり、ジャンプを繰り返すなど種目を回していく鍛錬があるのだが、アライブの場合はこれにベンチプレスや懸垂といった器具を使用する種目を加える。息も絶え絶え意識もうろうとしている中でやるもんだから危なっかしくてしょうがない。一度、帰宅途中の運転で疲労のあまり居眠りしてしまったほどだ。

 そんな訳で精神と時の部屋から帰ってきた悟空状態だった僕は新たなジムでは選手待遇で迎え入れられようやく調子に乗ろうと前のめりになっていた。と・こ・ろ・が、試合では思うように結果がついて来ない。内容は反則負けだったり、微妙な判定だったりでボロ負けという感じではないのだけどしっくりこない現実だけが続く。

 総合を始めた時は敵を知る為に学びに行った空手以外の技術だったが、いつしか周りの言葉にも乗せられてプロを目指すようになっていた。チャンピオンベルトには皆目興味がなかったがせめてライセンスくらいは取得しないと学んだ事にならないという訳のわからない義務感に駆られていた。

当時はアマチュア修斗という競技がプロへの登竜門として一番権威がある大会として名を馳せていたが、僕は地方予選の決勝だか準決勝で、対戦相手のヘッドギアに指を掛けて顔面膝蹴りを連発したとして大会委員長の若林太郎さんにこっぴどく叱られて、出場停止期間を食らい全国大会への切符を失っていた。今年のプロ昇格は無理かと半ば不貞腐れていたところにJTC(ジャパントータルファイトチャンピオンシップ)という大会の案内を見つける。こちらは当時アマチュア格闘技界を牛耳っていたアマ修斗に対抗すべく、修斗系以外の団体とジムが連携して発足した組織でなんと優勝者には賞金も出るという。今もなおTVで放映しているRIZINで活躍している中村K太郎選手やこの後パンクラスという団体でチャンピオンになる前田吉郎選手などはこのJTCからプロデビューしている。

 気まぐれにエントリーしてみたら気負いがないのが幸いしたのか東関東大会で優勝。なぜかトロフィーや賞金は未だにもらってない(笑)。次の全国大会では国内8地区の優勝者で1番を決める。余談だが、当時婚約中で親同士の顔合わせの日程と全国大会が被ったので僕だけ欠席した(笑)。

 結果的に準決勝で優勝した選手と対戦し破れ3位に終わった(3位決定戦は行われてないので少し背伸び)。プロ選考の基準は全国大会で3位以上というのが通念であったので慧舟会の大会プロモーターさんからも名刺を頂いたのだが一向にオファーが来ない(涙)

 一度はプロのリングで戦ってみたいという淡い希望と焦燥感に駆られているところに突然会社からベトナム行きの辞令が下る。半ばあきらめモードで過ごしているうちに、当時破竹の勢いで格闘技界に頭角を現しつつあったDEEPという団体にフューチャーファイトというセミプロのようなカテゴリーで出場する機会を得た。2002年頃からTVで放映されていたプライドという格闘技のイベントに流行の火が付き始め、プライドの下部組織として選手を輩出するフィーダーショーとなったDEEPは修斗を凌ぐ勢いをつけ始め後楽園で定期的に試合開催するまで成長していた。僕の試合は格闘技界では有名な青木真也選手と元修斗のチャンピオンである中尾受太郎選手の対戦するイベントの前座として組まれた。

 対戦相手はボクシングをバックボーンに持つ選手。僕は空手がバックボーンだから蹴りを有効活用しようと考えていたが、技術的な事より何より、反則負けばかり繰り返していたので、制限の少ないプロルールで自分を開花させる事にワクワクしていた。

 自分の中に眠る野生を覚醒させるって事で、アップ中もアゲアゲの曲で動きまくり、奇声や雄叫びを上げる。開始のゴングと共にダッシュして、飛び膝蹴りと浴びせかけた・・・。

当たらねぇ(笑)

 ならばと嵐のようなラッシュを仕掛ける。カウンターもらうもらう(笑)。とっさに組み付いて、得意のそり投げを狙う。潰された(笑)。あっけなくバックを取られて首を絞められる。
ギブーッ!!(泣)

 婚約者、幼馴染、外国の友人の見守る中で一つの幕が閉じた。自分の中に眠る虎なんていませんした(笑)。チャウチャウだった(泣)

 こうやってほろ苦いデビュー戦を胸に日本を離れる事になった(笑)。