世界のベンチマーク(自伝)帰国編(四)格闘家復帰への道パートⅠ

このブログの内容が海外生活や海外でのビジネスに焦点を当てているので、その他の活動については詳しくは触れていなかったが、最初のグアテマラ編を見てもらえばわかるように僕の行動原理のベースは空手にある。

13歳の時、たまたま流派の世界大会に出場する事になり、それまで負け犬人生だった自分への周りの視線が変わった。今思えば些細な事だったのだけど、初めて自信というものを実感した僕は「空手家で生きていく」事を心に誓った。それは誰に宣言するでもなく、職業にして生きていくという意味でもなく、「生き方」として自分の空手家像に対して帰依するという意味において。

 それからは、勉強にしても、仕事にしても練習の中で見つけた方法を実験する場でしかなかった。教えられた型を条件反射できるまで練りこみ、それを疑い、仮説を検証する。自分の心理状態を相対化して、感情を必要な状態に誘導する。ただその2つを繰り返す。

妻にも、職場の人にもはっきり断言していた。「自分の中における最初の肩書は空手家である」。社員、上司、父親、夫、様々な立場はあれど、自分の中の空手道が全てに優先する。彼らが判断、評価する「野田和哉」の全てが空手と繋がっているからだ。それはなかなか理解されなかったが、宗教を大事にする諸外国ではすんなり受け入れられた。

グアテマラから帰国した僕は空手には復帰せずに総合格闘技というものに挑戦した。空手という武道が先生から教えられた通り本当に殺し合いの時代からの護身術であれば道場外でも通用するのか試したいという気持ちと他の競技でも今までの積み重ねが意味を持つのか知りたかったからだ。総合格闘技というのは「世界のあらゆる格闘技が戦ったらどれが一番強いのか?」というシンプルな幻想に応える形で始まった競技だ。言ってしまえばケンカを公の場で行うというモノでその残酷さからなかなか普及しなかったのだが、1993年にアメリカのデンバーで相撲、空手、ボクサー、力士などあらゆる格闘技の猛者を集めて競うアルティメットファイティングチャンピオンシップという大会が行われた。そこで優勝したのは出場選手の中で一番身体の小さいブラジルのホイス・グレイシーという男。原初の柔道を源流に持つ寝技主体の柔術を使いこなし、並み居る巨漢を倒していった。グレイシー柔術の活躍を契機に世界中にブームが一気に広がり日本にも柔術の道場ができつつあった。映像を見た僕は圧倒されると共にいつか空手の仇を打つと心に決めていた。

  帰国して間もない頃、たまたま武道具ショップで見かけたチラシに「コンプリートファイティング」という大会の案内を見つけた。ついに総合格闘技で自分を道着とスーパーセーフというヘルメットのような防具を着用して戦い優劣を競い合うもので、勝敗はKOか関節技・締め技で決着。ルール上は馬乗りになって頭突きまであるという危険な大会であったが、グアテマラで数々の修羅場を潜り抜けてきた僕は意気揚々と参加に名乗り出た。
 
 対戦相手は若干17歳ながら優勝候補と目される少年H。パンフレットによるとあのグレイシー柔術を学んでいると書いてある。心が高鳴る。序盤は打撃の交換から顔面に膝を入れるなど僕がリードしていたが、防具のせいかKOまで至らず。そのうちタックルで倒されて、肘の関節を極められた。それまでの妄想練習によると寝技の展開になれば、肛門に指を入れる、鼓膜に空気を送る、喉ぼとけを指で挟んで潰すなど想定していたが全く何もできず(笑)。完敗オブ完敗(笑)。僕はそのH君が所属するアライブというジムに入門した(笑)。

ちなみにH君はその後、TVで放映されるような大きな格闘技イベントでもベルトを巻き、世界最高峰と言われる先述のアルティメットファイティングチャンピオンシップに参戦する事になる。
“厨二病、こじれた先は踏み台也”