続・インド編 (十六) 終焉の始まり

赴任当初の目的もおおかた果たし、肩の力も抜けてきた頃に社員旅行の話がもちあがった。毎年恒例で執り行ってはいるもののバジェット(予算)が少なく、小学生の遠足程度のものしかできていなかった。今年はみんな頑張り前年度比15%増と大幅に目標を達成したので、派手にやりたいとスタッフが言い出した。それならば予算を超える経費に関しては各自が負担するという同意のもと、インドの一大リゾート地ゴアに向かう事になった。ゴアは1974年までポルトガルの植民地でインドでは珍しくキリスト教の信者が多い。南北に美しいビーチを持ち70年代はヒッピー文化の中心地として名を馳せた。余談であるが日本にキリスト教を伝導した人物として教科書に出てくるフランシスコ・ザビエルは日本での布教に失敗した後、日本文化に多大な影響を与えている中国での宣教を試みるものの入境を許されず、病を発症して死亡する。その後、遺体はゴアに運ばれて現在でも教会に安置されている。

スタッフはオフィスにいる時の数倍のスピードで飛行機や宿の手続きを進めた。現地人にしかできない手法で現地に一軒家を貸し切り、移動手段としてバイクをレンタルする。インドのハーレーと呼ばれるRoyal Enfield(もともとは英国のバイクブランド。インド企業に買収された)に跨り、ココナッツ樹林を駆け抜ける時に頬に感じた風は「解放」としか形容できないものだった。ビーチに着いた後はテントを借りてスタッフみんなで寝転ぶ。普段は州法によって酒が飲めないのでここぞとばかりに酒を頼む。だが、やはり普段飲み慣れていないので、全然進まない(笑)。まるで中学生が初めてのたばこを廻しているみたいだ。幸せな時間がゆっくり流れた。

ふと、自分の中にため息とともに「終わったなぁ・・」という言葉がこぼれ落ちた。奇跡は美しい。だけど脆い。多分、この一体感もいつか嘘のように崩れ去るだろう。その時、今日の事を思い出してまた前を向けるだろうか。そして不都合な相手を労われるだろうか。

さしたる根拠はないものの、流れを止めた水が澱む前に彼らの前を去らなければいけないなと予感とも覚悟ともつかない曖昧な感情を抱えたままいたたまれなくなり波打ち際に視線を移した。

旅行も終わりいつもの日常を過ごしつつもどこか空虚な日々を送りつつも、ちょうどこのあたりの時期からOは仕事とは別の悩みを抱えていた。

K社の駐在地の中でも群を抜いて生活条件が厳しいとされるアーメダバードは最長でも在任期間は2年とされていた。ところがOの滞在はもうすぐ3年を迎えようとしている。

これは他人事ではなく、僕自身も事前に2年間の確約を得て赴任しているので彼の前例がこちらにも適用される可能性があった。もっとも前職での経験から会社が嘘を付くのは嫌というほど身に染みている。約束を反故にした場合は辞めるというのは自分の中で決めていたのだ。

Oは自分に自信がなくつぶしが利かないと思い込んでいた。今すぐに日本に帰りたいけど辞める勇気もない。上司としては日本人の補佐がいなくなるのは困るが、一方で30前の若者をあまりここにとどめ置いて選択の幅を狭くしてしまうのもどうか。

日本の会社って要するにどんなアホでも面倒見る代わりに時間とともにその選択肢を削っていく事を鉄の信条としている。会社を超えて取引先と懇意になられたり、社員が自分たち以外の誰かに評価されるのを決して良しとしない。

Oは僕と過ごした2年間で(彼は9ヶ月さきに赴任していた)、大きく変化していた。最初はインド人にカバンを触れられるだけでも嫌がっていた彼が、誕生日にはうちの会社のみならず、同じビルで働いてる他社のスタッフがこぞって祝福に訪れるほど信頼を築き上げていた。ひとえに繊細な彼の周りへのホスピタリティが素晴らしかったからだ。インド人は一見、血も涙もないような発言や行動をする事もあるがそこだけで判断はできない。

“本当に必死でやってる?”

その一点のみを突き付けられているだけだ。国、人種、文化・・・違いはあるけど、ない。

僕との会話の中で、自分の強みを見つけたOはホテル業界に次の職を見つけた。この選択は正解だったようで、ホテルマンのサービスのコンペで優勝し、今は接客のマナーやガイドラインを作る企画部に抜擢されて働いているらしい。

Oが去った後の支店を1人で切り盛りしながらも、今度は自分の課題と向き合う順番が来たようだ。今までのように、会社の事情や妨害者や何かの改善に向かって時間を使うのではなく、僕が最も苦手とするテーマ「何がしたいか」に答えを出さなきゃいけない。