*世界のベンチマーク(自伝)ベトナム編(ニ)企業の想い、個人の想い

 2005年10月、出産を1カ月に控えた妻を残し、2度目の片道キップで日本を出立した。
ベトナムは成田から飛行機で約6時間、1本のフライトで到着するやや遠いアジア。ご存知ベトナム戦争を経て共産主義政権が政治を支配している。ハノイを中心とする北ベトナムとホーチミン(サイゴン)を中心とする南ベトナムでは、方言や風習、見た目に至るまで全て違いそれぞれが独立した文化経済圏を形成している。僕が赴任したのは、北ベトナムの海の玄関口ハイフォン市。首都ハノイから120km車で約2時間半の場所にあり、日本の野村証券が運営しているハイフォン野村工業団地を有する人口170万人ほどの街。当時の日本人在住者数は全体で50名ほどであった。

空港から向かう車窓からの風景は田園が続き、漂ってくる匂いも古郷の伊勢の田舎と同じで懐かしい。道路沿いの電灯は暗く、TVで見た昭和初期の様子に似ていた。同じアジアという事もあり、グアテマラに比べると風情に共通点が多く感情を揺さぶる。日本に置いてきた妻とこれから生まれる子供に想いを寄せ、感傷がこみ上げてくる。期待より不安や孤独感の方がはるかに大きい。理屈から導き出される答えとは反対の方を気づけばいつも選んでしまっている。馬鹿な自分に諦めにも似た感情と巻き込まれる周囲への申し訳なさで涙がこぼれた。

出向した会社はベトナムの国営企業と日本の企業連合体の合弁であり、通称VJC(仮)と呼ばれた。日・越でそれぞれ3年毎に社長と副社長を交代していく形で運営されており、顧客はホンダベトナムを始めベトナムに進出した日系企業がメインだった。当時は物流会社で北ベトナムに進出している企業はほとんどなく、日系企業であれば独占的に取り扱いができた。野村工業団地も例外ではなく入居者のほとんどがVJCのサービスを利用していた。1994年に設立して以来、長年赤字続きだったがようやくベトナム投資ブームに火が付き損益分岐点を超え始めた時期だった。これにともない現場での仕事が加速度的に増え、応援人材として僕に白羽の矢が立ったという経緯だ。

合弁の内訳はベトナム側51%でハイフォンの港湾オペレーション会社がパートナー。これに対し日本側は総合商社のKを筆頭にM海運を含む5社連合体で49%の株式を分けるという複雑な株式構成で、僕が所属するM海運は9%のマイナー出資であったが、当時日側代表として日本人副社長を送り出していたK社のSОSを受けて、人員を出す事を決めた。自社の顧客のベトナム進出が増えた事と、日本におけるメイン顧客の一つであるホンダへのアピール効果を狙う思惑も背景にあったと思う。

かくして、関係各社、あるいは担当者それぞれの複雑な思惑が絡まったベトナムでの仕事が始まった。