世界のベンチマーク(自伝)帰国編(二)息継ぎ

業務部での仕事は快適そのもの。空気なんか気にしない僕はだいたい定時で帰れる毎日を楽しんでいた。ただ、金がない。住居補助も家族手当も雀の涙で、新しく成田付近に引っ越して家具を買い揃えた事で貯金もかなり減っていた。

家庭の方は8月に下の娘が生まれたばかりの状態で慣れない場所に移動してきた事による不安に加えて、東日本大震災の直後でたびたび大きい揺れが生じたり、福島原発の放射能漏れの影響が千葉県北部でも発見されたりしてストレスの溜まる日々が続いていた。

なんとか状況の打破を模索すべく、転職や独立に向けて行動を開始したかったが当面は家族の安定が優先事項になった。

そんな折、JPTジャパンの合弁の話が社内で浮上していた。JPTはグループでは黒字を確保していたが、ジャパンは万年赤字で売却の対象になっていたのだと想像する。当時の日本航空では大量のリストラが進められており、左遷や移動が頻繁で半年ペースで子会社の役員が入れ替わるというような異常事態であった。

社内の緊張感などどこ吹く風でマイペースな僕であったが、合併を前提とした海外グループとのシステムの統一や、JPTジャパンの取り扱う大きなイベントプロジェクトの一つである国際バイクレースにおける海外レースチームとのやり取りなど語学力を駆使する場面が増え徐々に目立つ存在となっていた。前談のI社長も見る目が変わったのか態度が軟化していった。もしかしたら、社内で一度絡まれた時に殺気を出した事があるのでそちらの影響かも知れないが(笑)。

やり手と期待されたI社長も着任後1年を待たずして他部署への移動が決まった。これを不服に感じたのか彼はひと月を待たずに辞職し他の物流会社に転職した。僕は僕で自分を高く見積もっていたのでなかなか条件に合う転職先も見つからず自信と焦燥感の間で揺れ動いていた。そんな時、求人サイトの中にある商社の「インドプロジェクト用人材の募集」という見出しを見つけた。正直もうインドに関わるのはゴメンだ。そんな気持ちもあった一方で、これまで物流会社勤務を続けてきた中で常に関わってきた商社への興味もあった。過去のベトナムでのいざこざも商社が物流業を下に見ているという風潮の中で起きた出来事だ。自分の仕事に誇りを持っていたが、同時に物流で身に着けたやり方で自分をバカにしてきた商社で結果を出してやろう。そんな気持ちが沸いてきた。破天荒な自分の経歴がどこまで通用するのかはわからないが、行くあてがなければ自営を始めればよい。そんな簡単な気持ちで応募スイッチをクリックした。