世界のベンチマーク(自伝)インド編(七)臥薪嘗胆

さて、ユ〇ク〇の出店計画の撤退によりインド駐在約10カ月にして目の前のミッションは無くなってしまった為、インドの合弁先からすれば僕はただの重いコストになってしまった。駐在の契約期間はまだ2年も残っている。香港の本社からすれば伸び行くインド市場に形式だけでも人を出しておきたい。そして僕は年俸で働いている・・・せめて自分の費用ぐらいは捻出せねばなるまいという自分なりの結論に落ち着いた。

とはいうものの自分で動かせるチームもなく、権限もない。媚を売るのも苦手。んー、じゃあ自分しかできない事をするしかないよねって事で2つの事業を始めた。

一つはJICAの職員向けの引っ越し。当時、スズキモーターズのお墨付き業者としてインドに進出していたヤマト運輸や大手の日通などもすでに引っ越しサービスを展開していたが、僕は自分の元青年海外協力隊員という肩書きを利用した。国際協力の社会は意外に村社会だ。同じメンバーが世界各国でぐるぐる廻っている。そしてどの人もクセが強い(笑)。
たまたま剣道を鍛錬されていた当時の所長さんと武道関係で懇意にさせてもらい、職員さんをご紹介頂いた。職員はみんな任期で交代するので紹介で仕事がつながる。そんな風にしてなんとか繋いでいった。引っ越し当日には作業員が来なくて、自分で荷物詰めをするなどインド的なトラブルにも遭遇したが、それでも懸命に作業する僕を可愛く思ってもらえたのかクレームは大きくならずに済んだ。

 そしてもう一つは自分が運び屋となってお客様の荷物を運ぶハンドキャリー。運び屋と聞くと麻薬などマイナスなイメージが付きまとうが、工場の稼働に関係する重要なパーツの輸送など緊急でどうしても通常の通関作業では間に合わない時などは乗客の付帯荷物として処理する場合がある。僕のケースはたまたま問い合わせがあった日本のニュース番組向けのビデオテープの輸送だった。合弁先も本社も航空会社を母体に持つので急ぎのチケットの準備は得意だ。しかも受け入れ先の日本もハンドキャリーの仕事は経験が豊富なのでオペレーションに問題はない。インド初ハンドキャリーの仕事が始まった。2009年当時すでに動画の送信などは可能であったと思うが、機密性の問題なのか、データ容量の問題なのかハンドキャリーの依頼は続いた。

 とまあ、なんとか新規でいくつか仕事を作ったものの、自分でガチガチに交渉した高い給与分を埋めるには程遠く、半ば不貞腐れて時を過ごした。仕事で貢献できないなら自分に貢献したいと考えてシンガポールに移住とビジネス展開を求め視察に行ったりしたが、妻の反対に合いあえなく断念。幸い給料は高かったので家族とヨーロッパ旅行に行ったりして贅沢をしてみたが僕の心は荒んでいた。こうやって雌伏の時を過ごすという表現がぴったりな状態のまま帰任と時を迎えた。

 ただ、人生ってわからないものでインドでの3年の駐在期間中、プライベートでやっていた格闘技教室のメンバーとの関わりは貴重な財産となって今に至る。

 敗残の兵の復活はあるのか?2011年8月。東日本大震災の傷も癒えぬ日本に帰国して人生の新たな章が始まろうとしていた。