グアテマラ編(七)岐路

指導を始めて10カ月ほどが過ぎようとする頃、協会の理事ドゥボンに夕食に誘われた。ちょうど中米オリンピックというキューバとカリブ諸国を除く中米諸国でスポーツを競い合う祭典が隣国ホンジュラスのサンペドロスーラという町で2か月後の開催を控えている時期だった。案内されたのはディスコのようなバーでステージにはポールダンサーが踊っているようないかがわしい雰囲気の場所だった。僕はほとんど酒が飲めないので、付き合い程度にテキーラのショットに口につけるふりをしながら親交を深めようと談笑していた。中米オリンピックの話題に会話が及んだ時、ふいにドゥボンが真顔になり、

「セニョール(ミスターの意味)ノダはもちろんグアテマラを勝たせてくれるよね?報酬もポジションも用意するよ」

僕の肩書はナショナルチームコーチであったが、中米オリンピックに対して公式の選抜大会は行われておらず、国際大会に向けてのチーム編成や合宿などは行われてなかった。一方で審判の公平性と技術面での正確性を担保するという意味で国際大会の審判員としては既に任命を受けていたので、彼の言っている意味がコーチとしてなのか、あるいは審判としてなのか当惑していた。前者であれば期待と激励、後者であれば不正行為への買収なので事態は深刻になる。

悪い予感は的中した。当時のグアテマラ空手会は3つの大きな派閥がしのぎを削っていた。USACという大学に拠点を置く古参のアルトゥーロ・アルマス、富裕層を中心に選手を育成しているギド・アブダーラ、そして経済力を背景に道場の吸収合併を繰り返して勢力を伸ばしてきたドゥボンのグループ。ドゥボン自身は空手における目立ったキャリアがないので、好成績を収めた選手や道場主をスポンサードしてその傘下に収めていたが、まとまりがなく選手の士気も低かった。まともに選抜を行うと自身の影響下にある選手が少なくなるので、職権を乱用して自身の道場生をそのまま代表選手に任命しており、そのコーチをやってくれとの依頼であった。更に、審判としても彼らを勝たせるように便宜を図ってやってくれという内容だ。

彼らがスポーツの成績に大きなリスクを冒してまでこだわるには理由がある。一般的に中・後進国の中には国威掲揚の為にスポーツの功績に大きな褒賞を与えている場合も多い。格闘技界で言えばフィリピンのボクシングの英雄マニー・パッキャオやK-1で活躍したクロアチアのミルコ・クロコップなどが政界進出まで果たしている。日本でもアントニオ猪木がいるが国民からの尊敬は海外と比べると著しく低いといえる。グアテマラでも例に漏れずサッカー、ボクシングなどワイルドなスポーツは人気が高く空手もこれに当てはまる。つまり、金になるのだ。実際、国際審判の日当も1日当たり380ドルほどであったが、当時の高卒の生徒たちの平均的月収が300ドル前後だったのを考慮すると推して知るべしである。

「・・・お断りします」

反射的に返答したが、言葉が口をでるまでの時間はすごく長く感じた。
メレンゲと呼ばれるラテンのダンスミュージックが大音量で鳴っているホールの中で心のどこかが静かに自分の死を直感した。ドゥボンの秘密を知ってしまった以上、第三者でいられる訳がない。断っても断らなくても深刻な状況になるであろう。

2か月後、案の定、中米オリンピックに参加したグアテマラチームは惨敗を喫した。想定外の事といえば、チームにフランシスコ・ロウという中華系の混血の選手がいたのだが、その選手の代わりに試合にでてくれないかと試合会場で笑えない打診があった事ぐらいであった。

結果に敏感なグアテマラ人、大会後ドゥボンの道場はほどなくして、生徒数が激減し、ビリアード場になった。

それから1カ月ほどが経った時期にドゥボンが弁護士を連れて国際協力機構JICAのオフィスを訪れてきた。

「インストラクターのノダが3歳の女の子の耳を殴りその鼓膜を破ったので解雇したい」

寝耳に水というか、そもそも3歳の女の子を指導していないので、濡れ衣なのは明白だが、当時のJICA所長は治安の悪い国の公的機関と揉めるのを嫌がった。僕の言い分は却下され、本当にお前の言う事が正しいなら詫び状を持ってこさせろとまで言われる始末であえなく職場を失った。

これがきっかけでうぶな自分は大人の世界にほとほと嫌気がさし、社会への不信感を募らせたが、今にして思えば、未熟な自分が弟子を守り抜く覚悟と配慮が足りなかったのだと感じる。悲劇のヒーローを演出すれば問題解決に背を向けても同情を得られるとでも思ったのかも知れない。