続・インド編 (十四) 裏切りの叫び

僕が赴任したアーメダバードはインド現法の本店ではない。メインオフィスはインド最大の商業都市ムンバイにある。20人近いスタッフがいるムンバイは家賃を含め圧倒的に経費が高いのだが、あまり取引は発生しておらず、それにとは逆に経費の安いアーメダバードにおいて売上が急上するという逆転状態が発生し始めていた。

 ムンバイにいるF代表は日本ではトップセールスマンとして名を馳せていた人物だが、インドの展開では苦戦していた。彼の営業ノウハウは基本的に上海駐在時代に培ったものだ。当時高成長バブル絶頂期の中国では酒と人間関係が有効なツールだった。どこまでも現実的で理性的なインドとは正反対の世界。おそらく本社では中国のクセのある商習慣がインドと共通するという見立てでそういった事に慣れている者を指名したのだろうが、インド人は日本人以上に西洋的な考え方をする。先進国とか後進国とか一元的なモノの見方をしていると大やけどをしがちだ。

 F氏と僕とは歳も4つ違いで近いので最初は何かと相談していたのだが、売上の低迷や日本本社への報告に焦る彼が提案してくる裏金とか酒で篭絡するという方法に嫌気がさし次第にそういう話題からは距離を置くようになっていた。それ以外の面では通常に付き合っていたつもりだったが、気づかぬうちにひずみは大きくなっていたようだった。昔から僕は他人の考えを読むのは得意なくせに感情を感じるのは苦手だ。色んな本を読んだけど、いつも目上の人との関係で足元をすくわれる。

 部下のOの見方によるとF氏の僕に対する態度が決定的に変化したのは本社の社長がパートナーのA財閥と2年に1回更新する業務提携契約の更新の際に来印した時だったらしい。本社の社長は会社間の売上や大きなビジネス展開にしか興味がないので、話題はもっぱらA財閥とのビジネスの進捗にあったが、昔ながらの縦割りの風潮が強いわが社では会社としてよりも部署毎に誰が売上を上げたという点に評価の軸がある。その為、F氏は自分の評価に繋がりにくいA財閥の仕事への興味は薄くアーメダバードにはめったに寄り付かなくなっていた。

毎度こちらから報告はしていたもののA財閥の状況には不勉強なF氏だったので、会議の中で応酬される質問の返答に困る場面も多く、自然と僕がフォローするハメになった。どうもこれが不味かったらしい。結果的にF氏の顔にドロを塗る事になった。

ほどなくして、アーメダバード支社の売上口座はムンバイに移転された。口座が統一されれば売上の詳細は本社から見てもわかりにくくなる。僕らは利益をあげつつもその中で予算をやり繰りするのが難しくなる。そしてなぜか相談もなくムンバイにレンズの事業部を作り、担当を付けだした。知見もないうえに同じ会社内で営業争いをしているようなものなので当然向こうは上手くいかない。結果その部門はほどなくして消失したが、その後もたびたび不穏な行動があった。炎上させたくないので未然に防げるものは防いでいたが、事態が悪化するのは時間の問題だった。

インドではどの日系企業も毎年3月に頭を悩ませる。日本と同じくインドも4月がその年の営業月の始まりとなるのだが、ここで各スタッフから苛烈な賃金交渉が始まる。それは文字通り切った張ったのやり合いで和を持って尊しとするに本人は苦手極まりない。当時7%とGDPの伸びが著しかったインドでは同じように給料も激しく高くなる傾向になった。目覚ましい成果を遂げたハルディックは当然の如く高い給与を申し出た。

 F氏の本意は定かではない。ただ今までの彼の行動を鑑みると目立った成績を残しているレンズの商売を自分のモノにできないなら潰してしまえという意図だったように思う。

 ハルディックの申し出は認められず事態は紛糾した。彼を失う事は会社としても損失になるが、F氏は僕の同意のもとにいたしかたなくハルディックを解雇したという意味の文面を用意して、こちらにサインさせようとした。勿論、拒否して猛反対したがストーリーは出来レースの上を静かに進もうとしていた。更にタチが悪い事に今回の解雇劇を誘導したのは僕だというでっちあげを本人に耳打ちしてなんと当のハルデッックがこれを信じてしまった。

 僕もワキが甘かった。F氏にあらかじめハルディックの給与に関しては相談されていたのでだいたいこれぐらいのレンジではないですかという目安は伝えていた。ただしあくまで目安なので応相談という説明も付けていた。この時に話した内容をメールにしてくれと執拗に依頼されたので不審に思いながらも送信ボタンを押したのが運にツキだった。おそらく文面を改ざんされて送信者の記録はそのままに当人に伝えられたのだと推測する。合意に至らず問題になっていた月給の昇級額は日本円にしてわずか4000円。これが意図的な嫌がらせでなければどのような表現がふさわしいのか。

 ハルディックは荒れた。おそらくお金そのものよりも信頼した人に裏切られた、騙されたという怒りや悲しみで。表情は能面のように固まり、誰とも口を利かなくなっていた。

 僕も方も、どんな説明も通じずハルディックが敵意を向けてくる事実に傷ついた。そんな訳ないだろう、なぜわざわざ貶める為にお前を鼓舞するんだ?俺に何の得がある?彼と流した涙も伊勢神宮の光景も全てが空虚な芝居の一部になっていった。

「その人の良い部分に着目して投資する」・・・やってみろよと言いたくなる。お前が作る信頼なんか4000円で買収されるぞ。