*世界のベンチマーク(自伝) 中国編 (八)社長との交渉

寝耳に水の通告であった。まだ支店運営が回復したばかりで、やっと家族も中国に呼び寄せる事ができた矢先での移動辞令。しかも行き先はインド。不潔とか貧困に加えて商売にがめつい人たちがいる国というイメージで家族帯同の生活も苦労する予感しかしない。

「考えさせてください」

それだけ返事するのが精一杯だった。断ったら会社に居づらくなる。一方でふってきたチャレンジに背を向けるのは主義ではないという気持ちもある。後で、冷静に考えると笑えるのだが、最初から会社に居場所もなかったし、日本の会社制度では社員をクビにするのは明確な落ち度がない限り不可能に近い。にもかかわらず進退と家族の安定を天秤にかけて悩み続けていた。バランスを失っていたのは自分の心の方なのに。

次に口を出た言葉は

「まずは条件を教えてください」

判断材料を集めるという名目のもと提示内容を会社に求める。JPTは実質的には年俸制だし、待遇を決定するのに明確な基準もない。提示された内容はその時の給与より少し上乗せされている程度。物価の低い後進国で暮らすには十分な額であったが、これまでのやり取りでまず確実にJPTが生活インフラのサポートをしてくれるとは考えられなかった。日本食の確保や一時帰国費用その他のコスト諸々については明確に記載されていない。

一通り悩んだが、やはり挑戦から背を向けるという選択は取りたくない。だからといってその為に家族にタダで苦労させる訳にはいかない。僕は大幅な待遇改善を求めた。間を取り持った上司は説得を試みようとしたが僕は頑なに譲らなかった。男なんて単純なもので要はナメられるのが嫌だったのだ。インドが大変な国だからって尻尾を巻いて回避すればプライドが傷つく。会社も僕のそういう気質を見抜いて提案をもってきている。ならせめて家族に苦労をかける分は換金しないと納得できない。交渉が決裂して僕に不利な人事が決定したり辞めたりする事になっても何ら気にする事ではない。終わり方が大事だ。話は上層部まで上がっていき、グループ本社の社長と直接面談して決定するという流れになった。

面談は北京空港内のカフェで行われた。先方からはなぜ僕にインドに行ってほしいかという賞賛まがいの言葉と期待が延々と述べられる。まるで政治家の演説のようだ。僕の方は淡々と現地での生活に必要な支援と求める待遇に対しての希望を述べる。仕事に対する質問や業務内容などには全く言及しなかった。

駐在を必要とする背景は至って単純で、当時のJPT社の大手顧客の一つに日本人なら誰でも知っているファストファッションブランドを展開するF社があったのだが、彼らがインドへの出店を計画していたのだ。そこで急遽現地に合弁会社を設立したのだがオペレーションがうまくいかない。そこで親会社の航空会社OBから駐在員を派遣したが、現地の会社とうまく折り合いがつかず数カ月で辞めてしまった。JPTとしてはF社に対して現地に日本人を派遣してますよというメッセージがどうしても必要だったのだ。

つまり今回の派遣要請に関しては僕自身の特性などあまり関係ないのだ。別に悲観している訳ではなく、能力は比較対象があって初めて評価されるものでコペルニクスだって現代では常識人の一人に過ぎない。需要と選択のバランスで見ると今回に関してはインドに住んで仕事できるか否かがポイントだと考えていたので迷いはなかった。覚悟が決まってしまえば説明する必要などなくなってしまう。200万円ほどの年収アップを確保した僕はインド赴任への準備を始めた。

2008年10月、リーマンショック直後で世間は混乱を極めていたが、使い捨ての雇われを自認していた僕は目標もキャリアアッププランも持たないまま惰性で局面を生き延びる事のみで時間の価値をわかっていなかった。