世界のベンチマーク(自伝)帰国編(六)格闘家復帰への道パートⅢ

憧れの海外駐在に出たものの、ベトナムには当然、総合格闘技を練習する場は無い。まだ世界的にも全然存在を認められていない時代なので、例えれば日本でセパタクローを教えてくれるところを探すようなものだろう。

ないなら自分でやっちゃえという事で取引先の従業員で元カラーギャングの庄子(しょうじ)君という若者とミット打ちの練習を始めた。庄子君は柔道で県大会個人2位、団体戦で全国準優勝するようなスポーツエリートという事もあって良い練習相手となった。他にも住んでいたハイフォン市の中にはオリンピック村といって、共産国において国からお金をもらってスポーツで生計を立てている人たちが訓練している施設があるのでそこに顔を出して散打というキックボクシングとレスリングを足したような競技の練習に参加させてもらっていた。意外かも知れないがベトナム人は強い。東南アジアの人って総じて器用で感情をあまり表情に出さない事もあって格闘技向きだと感じる。試合運びも上手いし、常にいっぱいいっぱいで頑張る日本人とは違い、余裕があって底知れない不気味さもある。

次の赴任地、中国の大連でもキックボクシングのジムはあったが総合格闘技のジムはなかったので自分でサークルを作る事にした。サークル名は「披着羊皮的狼(ピジャヤンピダラン)」羊の皮を被った狼という意味で普通は大人しいフリをして邪な心を持つ者という悪い意味だが、僕的には紳士的な表面を保ちつつ、中身の野生を殺すなという気持ちを込めて命名した。まぁ、恥ずかしいからサークル名を出す事もほとんどなかったが。ここでの活動が読売新聞に取り上げてもらったりして、日本人駐在員を中心に外国人にも教えていた。一度、中国人の挑戦者が表れて手合わせした。顔を殴ったりするのも後でめんどくさいので腕十字固めを極めた事があるのだが、全然まいったしない。個人の戦いというよりは反日思想がある為か国の威信を懸けているような意地を感じた。幸い締め技に移行できたので彼の精神力に関係のないところで勝負を終わらせる事ができたので良かったが、これ以降はイスラム教徒とか行き過ぎた愛国者系の人とは戦わないようにしている。

 最後にインドだけど練習環境はここが一番キツかった(笑)。他の2国に比べて更に格闘技が生活の中にない。彼らにとって格闘技とはテレビで見るプロレスくらいで見せる目的のボディビルは盛んだったが戦う技術を学ぶ場所はほぼ皆無だった。物件を確保しようにも気温が高すぎるので室内の床はよく冷える大理石やマーブルなどの石材が使われており、とてもではないけど危なくて練習できない。自然、公園など外での活動になるのだが日本に比べて芝生がごわごわしていて硬い。寝技の練習なんかすると毎回背中に赤ギレができるほどだった。ここでの生徒も日本人の留学生や欧米人が中心。インド人も何度か練習に来た事があるが、口が達者な国民性のせいかめちゃくちゃ根性がない(笑)。そもそも体育教育というものが浸透してないせいか、でんぐり返しさえまともに出来ない。改めて先進国というのは目先の金にならない事でも親がやらせる余裕があるのだと感じた。おそらく昔の日本でもよっぽど秀でた才能が確認されないのなら、子どもは黙って田んぼの手伝いでもしてろって感じだったのかなって思う。

インドのレスリング一家の模様を描いた「ダンガル」という映画があるのだが、そこには僕らが知っている既存のレスリングではなく下に砂を轢いてマワシのようなものを着用して行う原始的なレスリングのシーンがある。僕も縁あって、青年海外協力隊の柔道隊員の紹介でインドのレスリングの練習に少し参加させてもらった事があるが、とにかく体力的にキツかった記憶がある。伝統に裏打ちされた練習方法は一見意味不明なものも多いがやってみると身体の使い方だったり、反応のさせ方は理に適ったののが多い。ただやっぱり、民族的だったり、宗教的なものは「うるるん滞在記」のように期間限定でない限り、中途半端に関わるのは最終的に失礼に当たるので継続的に顔を出す事もなかった。基本的に自分が主催するサークルで教えながら強度低めの練習を続けていた。

こんな感じで、海外でも継続して練習環境を確保していたが、心のどこかで最後の惨敗が引っかかっていた。28歳遅咲きのリングデビュー以降すでに7年が経過していた。普通なら引退している年齢で厳しい調整を続けてきた訳でもない。それでも薄い夢のような復活劇を内緒で描き続けてきた

2012年、久しぶりに帰ってきた日本で自分が「ワンパンマン」になろうとはこの時はまだ夢にも思っていなかった。←今ココ